早いもので、もう6月も終わりに差し掛かってきました。そろそろ藝大の修士課程の入試出願の時期が近づいてきています。よく修士課程への進学を迷っているという方にお会いするので、いよいよ出願が迫ってくるこの時期に、何かの判断材料になれば良いなと思い、この記事を書きます。
目次
- 私自身の場合〜留学のための修士課程進学決意と留学希望先の入試失敗〜
- 私観的な藝大のカリキュラムの哲学
- 藝大の修士課程の魅力①〜豊富な授業〜
- 藝大の修士課程の魅力②〜自由な修士リサイタル〜
- 藝大の修士課程の魅力③〜修士論文と学位審査会〜
- 大きな壁「修士論文」のテーマを決めるときに覚えておきたいこと
- 藝大大学院に求めたいこと
- 修了後の進路の可能性
- 終わりに
私自身の場合〜留学のための修士課程進学決意と希望留学先の入試失敗〜
私は、普通科の都立高校を卒業後、1年間の浪人生活を経て、東京藝術大学音楽学部に2018年に入学しました。入学後は、浪人した分、大学はとても楽しく、通常の充実した学生生活を送っていました。特に、2年生の夏にフランスへの演奏旅行や、オラフ・オット先生との出会いをきっかけに学部在学中に留学をしたいと考え、準備していました。
しかし、2020年のコロナ禍でその目標は断念せざるを得ない状況になりました。それどころか、学部3年生と4年生の間は予想していた学生生活とは大きく異なってしまいました。正直、練習や友人との関わりに制約があった後半の学生生活には十分満足できたわけではなかったと思います。この学部の間の不完全燃焼感が、修士課程への進学を決める一つの理由にもなりました。
ただ、学部の間の不完全燃焼感だけが修士への進学理由ではありません。むしろそれよりも、海外留学のチャンスを掴むためというのが1番の狙いでした。海外留学の奨学金を狙う場合、学生の身分を持っていたほうが応募できる奨学金の数が増えます。そして交換留学などといった手段も増えます。この留学に対するメリットが欲しいというのが私の修士課程進学の1番の理由でした。
というのも、実は当初、修士課程への進学を全く考えていなかったのです。前述したように、藝大にとどまらず海外へ羽ばたきたいと思っていたこともありました。また、演奏業界には、修士課程に進学するよりも、早く現場へ出て経験や演奏家としてのキャリアをシビアな環境で積んだ方が良いという考え方が根強くあります。「修士課程は行き場がない学生が延命治療を受けるために入院するところ」という考え方に私も少なからず染まっており、正直、修士課程への進学をみくびっていた部分があります。そのため、藝大の修士課程で何かを学びたいというモチベーションはほぼ無く、留学するために都合が良いという理由で大学院入試の受験を決めたのです。
その後無事、修士課程に合格し、学内の留学奨学金の内定もいただくことができました。学部卒業後は、修士課程にそのまま入学し、4月の2週目にはドイツ・ベルリンへ受験のため飛びましたが、6月に希望していた留学先の入試で惨敗。7月に日本へ帰国することになります。しかし、帰国して戻った藝大大学院で、やっと純粋に修士課程で学ぶモチベーションに出会うことができました。それは、北川森央先生の「器楽特殊研究」や佐藤文香先生の「大学院研究基礎」、そして聴講させていただいた福中冬子先生の「音楽学演習」という授業なのですが、そこで学ぶ内容を理解するためには、まず藝大のカリキュラムがどのように組まれているのか、理解する必要があります。
私観的藝大のカリキュラムの哲学
藝大の演奏家育成カリキュラムは、段階的に音楽家としての能力を育成するように組まれていると私は考えています。まず、学部では1つの作品を高度なレベルで演奏できるようになる段階。そして、修士ではそれらを組み合わせてリサイタルができるようになる段階です。
まず、学部のカリキュラムは、卒業演奏会という4年間の集大成となる大舞台へ向けて組まれています。この卒業演奏会では、それぞれの専攻ごとに設けられた制限時間内で選択した作品を演奏します。多くの専攻の場合、1作品か2作品程度しか演奏する時間はありません。ただ、単に1作品演奏するだけと言っても、そのために様々な知識や技能を総動員して向き合う必要があり、とても大変なことなのです。基礎的なソルフェージュ、合奏能力、最低限の理論的な作品構造の理解、作品の生まれた歴史的背景など、4年間で学んだことを全て活かして、自らの感性を鍛えて卒業演奏会へ向かい、その成否が判定されるのです。言い換えれば、学んだ内容を総動員して説得力ある演奏をできるようになることが藝大の学部を卒業するレベルで求められているのではないでしょうか。
その上で、修士課程のカリキュラムは、この演奏能力を前提に、様々な作品を組み合わせてリサイタルができるようになることが一つのゴールです。また、専攻によっては演奏の審査だけでなく修士論文も求められます。そのために、藝大の修士課程では、演奏実技のレッスンのほか、リサイタルを組み立てるために必要となる音楽への深い理解のための授業や、修士論文執筆のために必要となる学術的なアプローチを学ぶ授業などが展開されています。これらをマスターし、音楽家として1つの作品を演奏するだけでなく、1つの演奏会を作り上げることができるようになることが藝大の修士号を取得するために求められていると私は考えています。
この記事を読んでいる修士課程への進学を考えている学部生に覚えておいてほしいことは、修士課程に進める人というのは、ある作品の演奏を組み立てるための音楽的な能力が既にあり、あと2年間でそれらを組み合わせたリサイタルができるようになる可能性がある人ということです。つまり、演奏能力はもちろんのこと、演奏を成り立たせるための知識や技能が修士に進学する上では非常に重要です。
話が少し逸れたので、元に戻しましょう。ここでは、私が留学に失敗して戻ってきたことで気づいた藝大大学院での授業の魅力を理解するため、藝大の演奏家を育成するためのカリキュラムを確認しました。学部では演奏自体を作れるようになること、修士では演奏会を作れるようになることが藝大のカリキュラムの哲学にあることが理解できたかと思います。それでは、藝大の修士課程の授業の魅力はどのようなものなのでしょうか。
藝大の修士課程の魅力①〜豊富な授業〜
まず、帰国して最も楽しかった授業は北川森央先生の「器楽特殊研究」でした。北川先生は、そもそも文章すら書く機会がない中で入学した大学院生のために、演奏の比較や、感動したものの紹介文を書くといった簡単な課題を通して、文章を書くこと自体に慣れることから授業を始められていました。そして、修士論文が近づいてくると、より実際的な内容の個別指導を行なってくださったのです。私は、授業のクラス内で議論を行ったり、文章を書く喜びをこの授業課題で知りました。そして、佐藤文香先生の「大学院研究基礎」では、修士論文執筆に向けた具体的な道筋を立てるためのワークシートに取り組みました。そもそも研究とは何なのか、どのような可能性があるのかという基本的な部分から、研究課題を見つけ、修士論文を書き切る見通しをつけるところまで、この授業で学ぶことができました。また、楽理科の福中先生のゼミに聴講の身分で出席させていただいたことで、音楽学がどのような問題を扱い、どのように議論しているのかを現場で知ることができました。このように、私の場合は、藝大大学院で音楽研究という新たな魅力に気づくことができたのです。
もちろん、藝大大学院では音楽研究だけでなく、演奏のための実践的な学びを得ることもできます。例えば、藝大フィルハーモニア管弦楽団の実習では、プロオーケストラの現場経験を大学院にいながら実地で学ぶことができます。他にも、理学療法士による身体のケアを学ぶ授業や、語学の授業など、豊富な可能性が開かれています。
そして、学生のモチベーションの高さも大学院の魅力となっています。周囲が演奏することだけにしか興味がなかった学部時代と異なり、修士課程以降は演奏を高めるために、その周りを固めて学ぶ姿勢がある学生が多く集まります。したがって、ただ演奏ができるようになったというだけでは物足りないと感じている人こそ、修士課程で学ぶメリットが多くあるのです。
藝大の修士課程の魅力②〜自由な修士リサイタル〜
ここまで、藝大大学院の授業面の魅力について説明してきました。しかし、修士課程の面白さは授業だけではありません。藝大大学院の演奏系修士では、修士リサイタルの実施が必須となっており、この1つのリサイタルを作り上げるという面白さも大きな魅力となっています。
専攻によって異なりますが、管打楽器の場合、修士リサイタルは日程や会場、内容まで全て学生が決めて手配する必要があります。指導教員と相談しながら、自分の興味のある内容を広げ、音楽でひとつの世界観を表現する修士リサイタルは苦労も多い反面、やり遂げた暁には大きな達成感が待っています。一般的に、リサイタルを開催するには会場やスタッフなど経済的な負担が大きく、なかなか1人で開催するのは難しいのですが、修士リサイタルは会場代もかからずハードルが下がっているほか、人によってはジョイントリサイタルの形で複数人で協力して演奏会を作り上げることも可能です。
私の場合、美術学部の友人にイラストを描いてもらい、それをメインビジュアルとしたポスターやプログラム冊子の制作にとてもこだわりました。他にも衣装や照明など、全て自分で頑張った分だけこだわりの詰まった演奏会を作れる機会があるのは、修士課程の大きな魅力となっています。
藝大の修士課程の魅力③〜修士論文と学位審査会〜
そして、いよいよ修士課程の集大成となるのは修士論文と学位審査会です。専攻によっては、修士論文の提出は任意とされていますが、私はこの修士論文こそ、藝大修士課程で学んだことの集大成として位置付けられる大きな一つのゴールだと考えています。例えば、私が留学を希望していたドイツのある大学院の場合、この修士論文の執筆自体がありませんでした。つまり、藝大大学院は修士論文の提出があることで、そのアカデミックな価値を担保していると言えます。一方で、論文の執筆は、演奏とは直接的には関わることはなく、むしろ演奏の練習時間が一時的に確保できづらくなり、遠回りしているような感覚を持つ方も少なくありません。しかし、私は修士2年間の集大成として1本論文を書くことは、長い目で見ると大きなアドバンテージになると考えています。そのためには、テーマ設定が非常に重要です。このテーマ設定については、次節で詳しく述べます。
修士論文を12月末に提出した後に待っているのが1月末の学位審査会です。学位審査会では、修士論文のテーマにあった内容の演奏を行います。例えば、ある作曲家の作品について研究した場合、その作品を実際に演奏します。他には、教育メソッドについて研究した場合は、その実演や説明を行ないながら関連する楽曲を演奏している例もあります。先生方は論文とこの学位審査会を合わせて修士号に相応しいかどうかを審査し、合格すれば晴れて修士課程の修了となります。
修士論文と学位審査会を経て、修士号を取得するというのは、厳しい道のりではありますが、大きな実力をつけられるということを意味します。私の場合、修士号を取得できたときは、2年前の学部卒業時と比べて大きく実力を伸ばせた実感がありました。これこそまさに、藝大の修士課程の魅力と言えるでしょう。
大きな壁「修士論文」のテーマを決めるときに覚えておきたいこと
ここまで藝大大学院修士課程の魅力を授業、修士リサイタル、修士論文、学位審査に分けて説明してきました。中でも修士論文は、演奏家になることを目標としている人にとって大きな壁であると同時に、長い目で見ると大きなアドバンテージになり、有意義なものにするにはテーマ設定が大事だと書きました。それでは、まずどうして大きなアドバンテージとなるのでしょうか。
修士論文を持っていることのメリットは、大きく分けて2つあります。まず1つ目は、これまで学んできた音楽のうち、自分が特に詳しく人に説明できるものを得られるという点です。これは、今後教える立場になった際に生かすことが出来るほか、他に気になるテーマが出てきた時に、どのように学べばいいのかその道筋をわかっているという大きなアドバンテージになります。次に2つ目は、自分の文字業績として就職や助成金の申請の際に実績のアピールとして使えるということです。まず、修了後に最も近いのは博士後期課程への進学に修士論文は直結します。そして、教える立場として学校などの教育機関に就職する際にも、修士論文を書いていると大きなアドバンテージになります。このように、修士論文は、書いた経験自体が将来にわたって大きなアドバンテージとなる可能性のあるものなのです。
そして、せっかく書くからには有意義なものにしたいと考えることになるでしょう。そのためには、テーマ設定が非常に重要です。修士論文を先述したアドバンテージとするためには、自分にとっても他人にとっても有意義なテーマを見つけられるかどうかが大きな分かれ目になります。この記事を読んでいる人に、その詳しい内容を説明するのは少し深入りしすぎた内容のため、ここでは省略しますが、ぜひ頭の片隅に、修士論文のテーマを決める時には、自分にとっても他人にとっても有意義なテーマを見つけられるかどうかが大事ということを覚えておいてください。
私自身の場合は、武満徹の金管アンサンブル作品について修士論文を書きました。これは、博士後期課程に進学したいまも続けている内容となっています。いずれ、このテーマを選んだ経緯などをブログに書きたいと思います。
もっと詳しく知りたい方は、こちらのサイト(東京大学が研究とは何かというテーマで出しているサイト)がおすすめです。
藝大大学院に求めたいこと
ここまで、藝大大学院のポジティヴな側面を書いてきました。しかし、残念ながら藝大大学院に足りないと感じている部分もあります。
まず、藝大大学院には演奏系の学生が参加できる少人数のゼミがありません。多くの一般的な大学には当たり前のゼミという存在がないため、テーマの設定や研究内容を相談したり、議論することで深められる場所がないのです。私は、楽理科のゼミに参加させてもらったので、とても勉強になりましたが、理論的な研究をする楽理科と実践的な演奏を伴う私の立場には研究対象や興味の方向性が異なる場合もあるので、藝大大学院は演奏系の学生が参加するゼミの設置や運営が必要だと思います。
また、これまで魅力として挙げていた修士リサイタルや学位審査会に係る費用が全て自己負担となることも、学ぶ上で大きな障壁になっています。例えば、私の場合は武満徹をテーマにしたため、演奏するための楽譜をレンタルするだけでも1作品あたり5万円以上かかります。他にも、広報のためのチラシ代など避けられない経費の負担を学生に求める体制を脱却してほしいというのが私の願いです。
これらの問題の根幹には、研究費を獲得して研究室運営を行い、ゼミというチームで研究を進めるという根本的な組織体制が藝大大学院の演奏系専攻には全くないという背景があります。演奏家として実績を積まれてきた先生方には酷かもしれませんが、大学での研究水準を上げるためにも、資金の確保と研究室の運営という最低限の組織体制は整えていただきたいと私は思っています。
修了後の進路の可能性
ここまで藝大大学院での学びについて書いてきました。演奏系の修士課程で学ぶ意義を感じてくださったならそれが本望です。それでは、修士課程修了後にはどのような進路の可能性があるのでしょうか。
私自身が知る限りでは、管打楽器専攻生の場合、オーディションを通過してオーケストラに就職する方や、フリーランスとして活躍する方、学校や吹奏楽部での指導を主な仕事としている方、留学する方や進学する方など様々な場合があります。いずれの場合も、学部卒業段階に比べて音楽を生業として生活する方の割合が増えている実感があります。さらに長い目で見た場合、演奏系専攻で修士号を持っている人は非常勤等も含めて大学や音楽高校などの専門的な教育機関で教える仕事に携わる方が多いように思います。このように、修了後には、より高度で専門的な内容を活かして、演奏や指導などで仕事をする可能性が開けています。
終わりに
とても長い記事でしたが、ここまでお読みくださり、ありがとうございました。藝大大学院に演奏専攻で進みたいと考えている方に少しでも役に立てば良いかなと思っています。次の記事では、では実際に修士課程の入試を突破するためにはどうすれば良いのかといった具体的な内容を書いていこうと思います。ぜひリクエストや感想があれば、コメントいただければ幸いです。
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